今からちょうど1年前の夕方に、ニューヨークのJFK空港に着いた。そこからアメリカでの暮らしが始まり今日から2年目に入った。全然引っ越しが好きなわけではないのだけれど、直近の約3年ほどは動かざるを得ない状況だったので、どこで暮らしても、まだ慣れないくらいの状態で次の場所へ引っ越しをした。中でも変化が大きかったものは、1年前のオランダからアメリカ移動だ。だいぶ落ち着いて状況を見られるようになってきたので、前回の記事と重なる部分もあるかもしれないけれど生活を振り返っておく。
日本から外国へ出るより大変だった「ヨコヨコ」移動
日系企業の海外駐在員やその家族が使う言い回しで、日本をはさまずに外国から外国へ異動(移動)することを「ヨコヨコ」と呼ぶことがある。ヨコヨコはきつい、というのが定説だった。なぜだろうと思っていたが、引っ越したら謎が解けた。生活出来ない状態でいくからだ。泳げもしないのに、準備体操なしにプールへ入ってしまう感じである。
今思えば、日本からオランダへの引っ越しは、オランダからアメリカへ移動するより格段にスムーズだった。夫が先に現地入りして家や車など生活の準備をしてくれていたし、夫と娘は外国で生活するのは初めてだったけれど、私は子供の頃に一度オランダの同じ街に住んだことがあったので、生活へのイメージが湧きやすく、緊張しながらもどこか懐かしく馴染みやすかった。
いっぽう、オランダからアメリカへの引っ越しは手探り状態が半年以上続いた。そもそも渡米後ひと月は契約の関係で住む家が無かった。その時に仮滞在をしていたそんなにきれいじゃないアパートメントホテルは米軍御用達らしく、筋肉自慢の強面たちが常に廊下をウロウロ。時折聞こえる彼らのシャウトにびくびくしながら洗濯室で洗濯物を洗い、オランダのことを清算しつつ、同時にアメリカの生活立ち上げをした。結局1月半ばにオランダからアメリカへ渡り、家に入れたのは2月半ば。そこから3月はじめまでは、オランダから送った家具が届いていなかったのであわててキャンプ用品を購入し、がらんとした家の中で、寝袋から這い出るように起きて鍋で湯を沸かしていた。そうこうしているうちに3ヶ月が経ち、生活のリズムをつかめてきた頃には桜が咲いていた。変化の激しさに体が追いつかず、昨年はアメリカに着いてすぐの1月と年末12月に気管支炎になり、緊急病院のお世話になった。
安全・日本語あり・徒歩でカフェに行けるアムステルダム
もう少しオランダ生活を振り返る。オランダで住んでいた街には、日本人コミュニティがしっかりあったので、努力しなくても日本語を話す友人が出来、お喋りをする機会はいくらでもあった。移動に関しても、オランダは自転車で動く人がほとんどで、便利なトラム(路面電車)があり、車の運転をせずとも気軽に1人で、あるいは友人と待ち合わせてアムステルダムの書店やカフェに行き、気分転換をすることが可能であった。そして街はひとり歩きが問題ないくらいには安全だった。それは、日本の東京で自分がしていた都市型の暮らし方に近かった。気候の悪条件(極寒と雨)は別として、生活行動パターンの観点のみからみると、実は日本からオランダの移動は少し楽だったのかもしれないと、アメリカへ行った後に思った。
銃社会・英語オンリー・車がないと身動き取れないNYロングアイランド
対する現在、今のアメリカ暮らしは郊外型の生活スタイルだ。娘の学区を最優先して家を決めたら、そこは周辺に日本人が1人もいない完全な車社会だった。ちょっと考えれば分かりそうなものだが、昨年ニューヨークへ引っ越しの下見に訪れた当時の我が家には、家を決めるために迷っている時間は48時間しかなかったし、私は、子供の学校さえ良ければあとはなんとかなると考えていた。しかし治安が悪くない街に住む=いつも安心出来る、ではないのである。結果的に今はここへ来て良かったと思っているが、引っ越し直後の初期混乱は激しかった。
アメリカ生活に慣れるのが大変だった理由
それは、この3つの「なし」が影響している。
「公共交通機関なし」
「日本語なし」
「安心なし(常に危険がつきまとう)」
これらについて、もう少し掘り下げてみたい。
車の運転
アメリカでは16才になると免許を取れる。ここロングアイランド郊外の住宅地では、16才以上の人は一人一台車を持っているのが当たり前、家によっては人数より多い車を所有していることもある。私は引っ越す前は、アメリカにも道はあるんだから自転車に乗れば良いじゃんなどと思っていた。でも、いざ引っ越してみると、自宅から1kmも行けば道が高速道路になってしまうので、自転車で行ける範囲には限界があることが分かった。この場所で車を運転出来ないことは、「どこへも行けない」ことを意味している。そして、自力でどこかへ行けないと感じることは、私にとって大きなストレスなのだと知った。
英語力
英語力が足りないために、人としっかりコミュニケーションが取れないこともじわじわと私のメンタルの振り子を揺らした。私は本来的にお喋りが好きなので、人と話したい。でもお店でも近所のスクールバスでも英語が早すぎて聞き取れず、最初は日常会話にすらついていけなかった。また、ニューヨーク州とはいえシティと違って保守的な土地柄のロングアイランドには、すすんで外国人と付き合いたい人はそう多くはなかった。というか、自国から出たことがなかったり、外国人慣れしていない人が意外とたくさんいて、表面上はフレンドリーだけれど踏み込まれることは望んでいないという雰囲気に初めは戸惑った。
治安の悪さ
現在住んでいるところは、アメリカ全体から見ると、かなり治安が良いと言われる地域だ。しかし私たちは自分たちが住んでいる街の中だけで暮らしているわけではない。やりたいことがある時には街の外、つまり安全度の低い場所へ出かけて行くこともある。ジョギングのため行く南のベイエリアや、週末を過ごすことが多いブルックリン、美術館などが目的で時々行くことがあるマンハッタンなどは生活圏内に入るが、この辺りには、麻薬の匂いをまとわせて酒瓶を片手に寄ってくる人たちがいる危険なスポットがたくさんある。不思議なのは、街中や道路でしょっちゅう喧嘩が起きていることだ。短気な人が多い。怒っている人と関わると何が起きるかわからないため常に油断は出来ない。
この3つの「なし」の中で、治安はどうしようもないが、車の運転と言葉は個人の努力次第でなんとかなることだ。あって困ることはないだろう。あるとないとで精神的余裕が全然違うので、もし今後アメリカで生活する可能性のあるかた、または可能性を持ちたいかたがいたら、あらかじめの母国での習得を強くおすすめしたい。
私が変わるしかないと思った「ラブミー事件」
あれはホテルを引き払い、新しい家に移り、オランダから家具などの荷物が届いて、自宅での寝袋生活が終了すると喜んでいた3月初め頃のことだった。トイレの詰まりが直らないので修理を頼んだら、自宅に来た水道屋の男性に半笑いで、「愛が足りないから俺の名前を呼んでくれよ。分かるだろ?」と言われて凍りついた。たまたま家人がいない時間帯で、私の日本語訛りの英語を聞いて足元を見ているのは明らかだった。相手を刺激しないようにノーと伝えてことなきを得たが、凶器が出てきたらどうしようと怖かった。
その日、怒りよりも不安と危機感でいっぱいになった私は考えた。
このままでは弱すぎる。。私には英語力と移動手段とネットワークが必要だ。夫は激務で体調不良になることが多く頼れない。自分が何かを始め、外へ出て、家族以外の人と話し、地域のことを知って、地に足をつけて生活をしようと決心した。
その後は、暇さえあれば図書館へ行った。徒歩や自転車で行ける範囲で、最寄りの中学校で開催されていた移民向けの英語講座を受け、タイチ(太極拳)に通い、近所の人には嫌な顔をされようと無視をされようと、何度でもこちらから挨拶をした。少しでも自分が役に立てそうなことがあったら積極的に申し出て、例えば自転車に乗れる利点を生かし(車社会なので子供は自転車に乗りたいが親が乗れないことがある)子供たちの自転車コーチもやった。公園では全力で遊んだ。夏休みには、公共交通機関と鉄道のみを使って娘とニューヨーク最東端のモントークまで片道8時間の旅をした。
近所の人たちとの交流のはじまり
必死に動いていると徐々に変化があった。近所に1人、2人と知り合いと呼べる人が出来て、公園で遊ぼうよと何人かの子供たちが気軽に我が家のベルを鳴らしてくれるようになった。本の貸し借りをしたり、ハイキングや夜の集いに行ったり、一緒に早朝ランニングをする間柄になる人が現れはじめた。そのうちのひと家族は、昨年ハロウィンやクリスマスイヴを一緒に過ごす友人になった。彼らは一度心を開くと優しかった。水道屋と庭師ならこの会社が信頼出来るよ、冬は水道管が破裂するから秋の終わりに元栓を閉めたほうがいい、明日はパジャマデーだから子供にパジャマを着せるのを忘れないでなど、どの人も親切にいろいろ教えてくれる。
近所の何人かと少し仲良くなった頃、友人のひとりがこう言ったのが忘れられない。
「この土地に何十年と暮らしていて、今までも何人かの日本人がここへ家族で来て去っていったけれど、あなたは私たちと話そうとした唯一の日本人。」
「日本人は全員ニコニコして良さそうな人たちだったけど、何も喋らないから本当は心の中で何を考えているのか分からなかった。あなたは違った。いつも自分から伝えようとしていた。仲良くなれると思った。」
私は思った。勇気を出して良かった。
英語圏におけるネイティブの人たちとの英語でのコミュニケーションは、そんなにいつもいつも上手くいくわけではなく、この一年は、だいたいトライアンドエラーを繰り返していた。私の移動手段はいまだに徒歩か自転車なので、雪の日の学校送迎など困った時には、友人たちが乗ってく?と声をかけてくれる。でも助けられてばかりではフェアじゃなくて心苦しいので、来年は私も車の運転を開始する。
心を失くすまえに
アメリカでの1年目は、生活基盤を築くため毎日が真剣勝負だった。snsなど、一部を切り取った情報を見ると、私はのほほんと生きているようにも見えたことがあったかもしれない。しかし、どんなにしっかり睡眠を取ったり好きなことでリフレッシュしても、不安が残る日が多かったのが実際だった。不思議だったのは、離れて暮らす友人からのメッセージに「もう生活に慣れた?」という言葉が入っていると、提携の挨拶だと分かっていてもしんどかったことだ。なぜだろうと思いウェブ検索をしてみて、慣れるとは、何も感じずにそれを行うことができることを指すと知った時に妙に納得した。治安のこともあり、日々緊張感を持っている現在の生活で「慣れたな〜。」と思えたことは正直、まだ数えるほどしかない。
私自身の気持ちにも変化があった。人との関係性に自分が求めるものを、日本にいた頃よりも具体的に意識するようになった。以前は気が合う人とならどんな人とでも話して楽しいものだと思っていた。この場合の気が合う人というのは趣味嗜好のどこかが合う人のことだ。たとえば私の場合なら、ハーブや植物が好き、いい香りが好き、一緒に体を動かすことを楽しめる、本や音楽や映画の話が出来る、美味しいごはんやお菓子を食べたり作るのが好き、買ったものより手作り志向etc…などだ。これらは話のきっかけになりうるし間違いなく大事なのだけれど、最近は、それ以前にまずお互いに自立していることが重要だと思うようなった。日本と比べると、外国の人たち、なかでも女性は特に、考え方や行動、生き方に芯のある人が多い。彼女たちに助けられるたび多分に私は影響されていて、ああ〜しっかりしなきゃ、しっかりしろ自分、と思う。これは日本で暮らしていた時にはなかった感覚だ。またその関係性において、自分が外国人であっても友達とはフェアでありたい、そしてできれば気が合う人と出会い時間を過ごしたいと思うから、なるべくふだんからいろいろなものに触れ、自分の好みを自分で理解して言葉で伝えるよう心がけるようになった。
そうしてアメリカ生活に全力を注いだぶん、失ったこともある。正確に日本語を使う力は弱まり(だからといって英語が上達したわけではない)、空気を読む力が減り、繊細さがなくなったように感じる。そして外国で生活していることの弊害として、家族の大事に駆けつけられないということがある。来たばかりで米国を出ると再入国出来なくなるかもしれないという理由で、私は昨年一月末に逝った祖母の葬儀に出られなかった。無念だった。ようやく八月に日本へ一時帰国し、初盆や家仕舞いのほんの一部を手伝い、母や親戚のかたがたと共に祖母を偲んだ。また父の古希のお祝いもした。祖母の弔いと父のお祝い、その二つのイベントや家族のことが優先事項だったので、たまたま帰国の話をした人でなければ知人友人にはほとんど連絡しなかった。いまだに信頼関係を築けている友もいれば、こうして外国で過ごす間に距離が離れた友もいる。
人は忙しかったり余裕がないと、自分でいっぱいになり真心を失くしてしまう。もともとそんなに筆マメなほうではない私は、ここ数年は生活自体に緊張しているぶん余裕がなく、自分で自分のことを常にあやうい存在だと思っている。物理的な距離が離れてしまうと相手の状況を想像するのが難しくなり、悩んで行動しないでいるうちに月日が経って、信頼関係は風化してしまう。しかし私はあきらめているわけではない。いつも出来るかぎりのことをしたいと思っている。家族や友人は大切だから。冠婚葬祭はとくに。その結果、もし相手がそれでは足りないというなら仕方がない。悲観しているわけではなく、生きているとそういうことはあるのだと思う。それでもその先の未来で、困難を越えて続く関係を誰かと築くことがあったなら、それはこの上ない喜びに違いない。
先のことは分からないけれど、もうしばらくアメリカに留まることになりそうだ。ただただ流れに任せていると一家諸共なぎ倒されそうなので、なるべく自分の頭で考えて、体を動かして、意思を持って日々の生活をしたい。