今年は暖冬と言われるオランダに氷の世界がやってきた。今日の気温は−4°、久しぶりに運河が凍った。私たちはまだ仮住まいのホテルにいる。そして来週明けに家族で米国へ引っ越す予定だ。昨年12月に娘と夫と三人で話し合い、本人の強い希望で出発直前まで学校へ行くことになった。今日はその最終日だ。はじめは少し厳しい状況だったけれど、今はぎりぎりまで通いたいと思えるほど娘にとって大きな存在となったオランダ公立インターナショナルスクールでの日々を振り返っておく。※2024年5月27日更新
ゼロから片言の英語を話すようになるまで
ほぼ準備をせずインターナショナルスクールに入った娘は、はじめの3ヶ月間はまったく自分から話すことが出来なかった。しかし1年半の通学期間を経た現在、堂々とは言えないけれど授業中にクラスメイトと共にオールイングリッシュで課題のプレゼンテーションが出来るようになった。どのようなことをしていたのか。
彼女は学校で週2回のELAクラスを受講していた。ELAクラスでは、英語話者の専任教師が英語が母国語ではない子が英語環境に慣れるためのサポートをする。生徒たちはそこで基本的な英単語や文法を身につけていく。並行してホームルームクラスでは、英語(日本の国語に該当する)、算数、理科、体育、音楽、ダンスなどの授業が英語で行われる。個人差があることだし、学校に入った年次にもよると思う(娘は小学校2年生の6月から転入した)けれど、親から見て我が娘については、相手の会話内容を理解し挨拶やイエス・ノーなどの簡単な意思疎通が出来るようになるのに半年、友人に英語で相槌を打つなどの短い発話が出来るようになるのに1年、そしてクラスで発言をしたり自分から話しかけることが出来るようになったのがここ最近なので、つまり集団内での自発的なコミュニケーションが取れるようになるのに約1年半かかったことになる。
ブレイクスルーになった“カンプメント”
このオランダの学校では全く宿題が出なかった。テストはあったようだが、英語がある程度理解出来る子が対象だったため、娘はそのレベルに至っておらず受けることが出来なかった。基本的に「出来なくても怒られない」環境だったので、どちらかというとおとなしいタイプの娘は普段の授業の分からないところは分からないままにやり過ごしていた。しかしそんな娘に試練が訪れる。
学校へ通い始めて1年くらい経った頃、娘の口から今日のカンプメントで、、という話題が頻繁に出てくるようになった。カンプメントとは、授業が全部終わったあとに行われる帰りの会で行われている、褒め合い習慣のようだった。先生が、「今日カンプメントやりたい人いますか?」と聞き、やりたい子は手をあげる。手を挙げて指名された子は、「今日私は、一緒に遊んでくれた○○にカンプメントをします。楽しい時間をありがとう。」と、その日良い出来事があったクラスメイトに対して、感謝や褒め言葉を述べるのだ。娘はこのカンプメントをクラスで一人だけやらずにほぼ一年を過ごした。途中で見かねた担任のMr.Rがやってみる?と声をかけるも、今はやめておくと断り続けた。ちょうどそのクラスで一年が経つ頃、もうすぐ夏休みというタイミングで娘はついに手を挙げ、担任のMr.Rに対してカンプメントを伝えたらしかった。
その日は娘を迎えにいくと、担任の先生(Mr.R)は驚きの良い報せがあるよとそのことを伝えてくれた。しかし娘は不安そうな顔で、学校から出てくるなり号泣し、帰りの自転車の上でも泣き続けていた。家に帰ってから何があったのかを聞いてみると、勇気を出して皆の前で発表をしたけれど、その際に日本人のクラスメイトから日本語で、「声小っさ。」「聞こえなかったー。」「英語の発音間違ってない?」といった野次が飛んだらしい。Mr.Rがその日の娘の行動を、自らの嬉しい、誇らしかったこととして私宛にメールを送ってくれていたのでその内容を娘に聞かせたところ、娘の気分はやや上向いたようだった。そしてその一連の流れをまたMr.Rにメールで伝えて本件は一旦クローズした。
これは半年ほど前の出来事だったのだが、娘の心に深い何かを残したようだった。本人曰く、この時感じたクラスメイトに馬鹿にされた悔しさと、先生に褒められた嬉しさの両方が、もっと英語を頑張ろうとか、もう一度皆の前で発表をしてみようと強く思うきっかけになったのだそうだ。ぬくぬくと自分が守られることが分かっている場所から、やむを得ず一歩外に出て痛い思いをすることで、本人なりの気づきを得たのだろう。
インターナショナルスクールの日本人コミュニティとノーサンキュー事件
先に挙げたように、娘が通うインターナショナルスクールの昨年のクラスには日本人のクラスメイトがいた。20人ちょっとのクラスに5人、インド人に続きマジョリティだった。ひと口に日本人と言ってもいろいろな子がいるわけなのだが、おそらくどこの国際学校・キャンパスでも共通して言えることは、言語の習得具合によって友達の範囲が変わってくることがあるということだ。ネイティブ並みに英語を話す子は、英語話者と母国語話者(日本人なら日本語)の中から自由に友達を選ぶことが出来るが、日本語しか話せない子は、よほど度胸がある子でない限り、まずは限られた日本人の子を頼るほかない。そして、たとえその日本人の子たちの中でヒエラルキーが出来て自分が命令されたりいじめられたりするようになっても、子供は学校で友達がいなくなるのはつらいのでなかなか関係性を変えることは難しい。そしてなぜか、この現象が起こるのは日本人コミュニティなのである。同質性を求める日本文化の気質によるものなのかもしれない。私自身はオランダで良い日本の友人がたくさん出来たので、決して日本や日本人のことを悪く言いたいわけではないのだが、これは本当にどこの学校でもよく繰り広げられているインター日本人あるあるである。
我が娘の場合は、英語はあまり話せなかったが気の合う子と遊んだほうが楽しいと言って初めから英語話者の子たちとも遊んでいた。その中で一人、娘によく話しかけてくれるインドの子がいて、娘もその子のことが好きだった。しかしある時から、娘とその子が英語で話していると必ず特定の日本人の子たちがやってきて、その子は無視して娘に日本語のみで話しかけてくるようになった。そんな状況が続いたある日、その子は“Hmm, Japanese people and me. No thank you.(うーん、日本人たちと自分。もういいや。)”と言って去っていった。友達が自分のもとを去っていったその夜、娘はベッドで大泣きし、翌日は日本人の子たちから完全に離れて外遊びの時間も一人で校庭にいた。すると韓国とロシアの子がやってきて、なぜ今日は日本人といないのかと娘に聞いた。娘が、日本人と一緒にいてちょっと疲れちゃったから今はノーサンキューなんだと答えると、韓国の子が、「へえーそうなんだ。じゃあ僕たちといようよ!」と言って、一緒に遊んだそうだ。最終的には英語話者の子たちを中心に、日本人の子たちとも遊ぶようになっているが、これから別の国へ行ったらまた変化するのかもしれない。いずれにしても、このような人間模様を度々繰り返す中で娘は、外国で生きていく際、ときに言語よりも重要なマインドとも言われる、断ること=ノーサンキューを学んだ。
オランダ公立インターナショナルスクール生活がくれたもの
オランダで泣いたり笑ったりしながら過ごした1年半の学校生活で、いつ娘に聞いても答えが変わらなかった問いがある。それは、「学校で心に残っている大切なことは何か。」という質問だ。彼女の回答は、一貫して「Ms.Iとの出会い。」だった。Ms.Iは娘にとって最初のELAの先生で、全く英語が分からない娘に歌や絵を使って英語を教えてくれた人だ。娘は言う。「Ms.Iに出会って英語を教えてもらったから自分は英語が出来るようになった。友達と話したり授業が分かるようになっていった。Ms.Iが学校にいなかったらと考えるとすごくこわくなる。」
人は生きていると、この人でなければという人との出会いを稀に経験することがある。オランダのインターナショナルスクールで娘が得たものについて、英会話力と捉える人があるかもしれない。でも私は、この経験は子どもにとって英語技能以上に精神力を鍛える場になったと感じている。幸運だったのは、彼女が外国という特殊環境下で信頼に足る大人と出会えたことだ。この出会いの熱はいまだに冷めず娘の心に強く残っており、おそらく彼女の未来に自信を授けるものになりうるだろう。そこに親として関わった私自身にとっては、たとえわずかな要素であったとしても、そのように子どもの未来に何か自信を残せる行動ができる大人でありたいと志を改める機会となった。
おわりに、日本から来た私には、学校の先生たちが友人の結婚式や自分のスポーツ大会出場のために簡単に学校を連続で休んだり、その後生徒たちにそれを楽しい思い出として授業で話したりと、バカンスを取ることに躊躇がなく人生を謳歌している姿がまぶしく映った。ここではこういうのもありなんだ、という感覚をさまざまな角度から経験することは、その後どう生きるかの選択肢を広げてくれる。子どもには、若いうちに自らの多様な可能性をたくさん感じてもらえたらいいなと思う。また次の新しい学校でも一緒に頑張ろう。