今年はクリスマスイブに雪が降ったので、残り雪のおかげでほんのりホワイトクリスマスになった。早くも今年が終わりそうなので、忘れないうちに約1年間のアメリカ生活で印象に残った言葉を振り返っておく。
英会話が楽になったマインド「英語は実況中継」「正直」
家族以外の日本人と話すことがほぼない現在のアメリカ生活において、英会話は必須ツール。ばりばりの英語圏であるアメリカで交わされる英会話は非英語圏のオランダと比べものにならないスピードだった。そもそもが早くて聞き取れない上に、ニューヨークの人たちは総じて早口なので、最初は戸惑い、何度も聞き返して相手をげんなりさせたりもした。しかし私は気がついた。英語ネイティブ同士のやりとりを聞いていると、「今していることや、これからすること。」を詳しく述べて会話が成立していることが多い。たとえば朝ジョギングしている時に、やあ元気?と聞かれたら「Yes, I’m doing good. I’m running well and will make breakfast for my family after this. How about you? (元気です。今私は楽しく走っていて、この後家族に朝食を作る予定です。あなたはどうですか?)」などと答える。楽しく走っているかどうかは見れば一目瞭然なのだが構わない。アナウンサーのように自分の行動を実況中継すると、なぜか会話がスムーズに続くので、そうしている。
もうひとつ相手と気持ちの良い会話をするコツがある。それは分かったふりをしないこと。英語力が高い人は除く前提で、私を含めた日本人はとりあえずヤーとかアーハーと言いがちなように思うのだが、これは失礼に値する。日本語で考えると分かるのだけれど、何を聞いても「はい!そうですね。」としか答えない人とまた次に話したいと思うだろうか。おそらく答えはNo、なので分からなかったら正直にそう言ったほうがいい。正直って大事。
今年のアメリカ大統領選をあらわす「コントラバーシャル」
今年の11月3日に行われたアメリカ大統領選挙。ちょうど秋頃に連絡を取っていた日本の友人たちから、アメリカにいてどうだった?とよく聞かれた。実際は、選挙投票期間はどこへ行ってもピリピリしたムードだったので早く終わらないかなと思っていた。私は、アメリカでは宗教よりも人種よりも政治の話がタブーと聞いていたので、いつもその話題だけは出さないように気をつけて子供にも注意するよう話していた。しかし投票日の2週間前頃に、突然娘が「選挙の話って友達としてもいいの?」と質問してきた。聞いてみると、彼女が乗るスクールバスの中で一人の男の子が、「この中にXX(共和党候補の名前)が好きな奴はいるかーー!?」「じゃあ、あのクソ女(民主党候補のことだと思われる)が好きな奴は誰だ??もちろんいる訳ないだろうな!」などの発言を日々繰り返しているとのことだった。娘には同調も反論もしないで沈黙するようアドバイスした後に、私はおそるおそる近所の信頼できる友人2人に、娘が私にしたのと同じことを質問をした。分かったことは、やはり、人によってはエモーショナルになりトラブルのもとだから話題にしないほうがベター、だった。
どちらを応援しているという話の前に、選挙権を持っているかどうかも気をつけたい話題だ。開票日翌日の朝に、ジョギングしながら顔見知りの人たちと、自分を含め3人で話していた時のことだ。一人が、「昨日は夜中の2時までテレビを見ていたから眠いんだ。」と言うと、「僕もだよ。」と別の人が言った。初めの発言の人が「それで、君たちはどっちに投票したの?」と聞いた。私が自分は短期滞在の外国人で現在選挙権を持っていないんだと答えると、もう一人は困ったように笑って、「僕、急ぐから。」と言ってスピードを上げて私たちから去っていった。すると初めの発言の主はこう言った。「ああ、きっと彼はまだシチズンじゃないんだね。」私たちの間には何かの気まずさが残り、走り去った彼は翌日から来なくなった。
この選挙の前後に、何度も聞いたのが「コントラバーシャル。」という単語だった。ニュースや生身の人との会話の始まりもしくは終わりに、「しかし今回の選挙は本当にコントラバーシャルだった。」という言い回しを耳にした。”controversial”には論争の的になる、とか、議論を引き起こすなどの意味がある。この言葉を聞くたび、何が正しい見解なのか分からない荒れた世の中が来る予感がして、背筋がスッと寒くなった。
夫の上司の口癖「お前はやりきったのか」
タイトル通りの言葉なのだが、私の夫が働いている会社の上司は、夫に向けてこの言葉をちょくちょく発していることが分かった。何とも昭和感が漂う言葉だ。話を聞いていて、常々古い社風だと思っていたが、上司が部下に職場でやりきったか聞くということは、自分の健康とか趣味とか家族とか諸々は置いといて、人生のすべてを仕事に捧げているのかと聞いている気がして、私個人としてはどうかと思う。でも印象的な問いではある。最近は、その言葉に応えようとして悶々としている夫に「あなたは、少なくとも家族に対してやりきっているよ!」と言ってみたり、私自身が何かを面倒だと思った時に「お前はやりきったのか?」と問いかけたりしてみている。やや追い詰められる感じが少なくなった気がする。目先を変えて使ってみることでポジティブに働く言葉ってあるんだと思った件。
世界有数の肥満大国にて「人生最高体重更新中」
アメリカに来てから「郷に入っては郷に従え」風に、私がアメリカ化したことはいくつかあるのだが、その中のあまり好ましくないものとして、パンケーキ、バーガー、タコスやクラムチャウダーといったアメリカンフードを美味しく頂きすぎた結果、体重が増えたことがある。周囲には豊かな人が多く、友人から「あなたはスキニー(痩せている)」などと言われて自分はまだ大丈夫さ、といい気になり呑気にドーナッツを頬張っていたら、バスルームで体重計に乗った時に、「きゃー!!人生最高体重になってるー!」という事態が何度か訪れた。夫は、きっと体重以外のものも得ているはずだよ…と遠慮がちに声をかけてくれるが、健康のために来年は記録を打ち止めにしたい。ちなみに、人生最高体重はあっても、赤ちゃんの時があるから人生最低体重はないんだねという話はなんだかきゅんとする。
アメリカの人は辛いのがお好き「ホットソース」
インドの人が辛いのが好きなのは知っていたが、アメリカの人がこれほど辛いもの好きとは知らなかった。地元の人たちと一緒にごはんを食べる時は、必ず「これかけたほうが美味しいよ!」とタバスコなどの辛いソースをおすすめしてくれる。どのホットソースが1番かという話は盛り上がった話題のひとつだ。私のお気に入りはシラチャソース。スッパからうまい、のようなテイストで、後味がさわやか。今や手放せないアイテムのひとつだ。
「ぶたい」の人
年に一度の健康診断を受けに、ニュージャージー州へ行った時のことだった。そこは日本語が通じる健康診断センターで、もともと日本から来てアメリカはもうだいぶ長いですという日本の方が4〜5名働いている場所だった。看護師さんの一人に胃カメラ検査前の麻酔を打ってもらっている時に、声がはきはきしていますねと言われ、私は「うーん、昔、舞台をやっていたことはあるのですがー。」と生返事をした。すると相手は「やっぱり!アメリカと日本じゃだいぶ違いそうですよねー。」と言う。私が昔、日本でやっていたのはミュージカルだったので、ブロードウェイの話をしているつもりで、「そうですね、こっち(アメリカ)は(表現が)激しいですね。」「わあー、激しそうですね〜。」などといった調子で二人でひとしきり会話を続けたのだが、お互いどこか噛み合わない。変だと思い「あの、ぶたいって…」と私が呟くように聞くと、その看護師さんは「…『自衛隊』ですよね!?」と訝しげに聞き返してきた。あっっ、そっちの「部隊」じゃないんです〜と言いながら意識が遠のいた。看護師さんは私を自衛隊と米軍(ネイビー)経験者だと思っていたそうだ。麻酔から覚めたあと真実が発覚し二人して爆笑した。初対面の人と話してたくさん笑うと一期一会の良さがあるけれど、外国でうら寂しい気持ちの時などにそういうことがあるとひときわ嬉しくて、ハッピーが全身に巡る。
お互いに言い合えるしあわせ「グッドネイバーズ」
アメリカ生活で何よりも、ほんとうに何よりもラッキーだったことは、隣人が良い人ばかりだったことだ。アメリカの映画には隣人をテーマにした映画が多い。怖い系のものもあれば、コメディ調のものもある。なぜだろうと思っていたが、住んでみたら謎が解けた。隣人は時に怖い存在なのだ。郊外の一軒家だと尚更である。自由な銃社会である以上、危険やトラブルが起きるリスクは日本よりずっと高い。ちょっと物音がするだけでも胸がどきりとする。ゆえに良い隣人に恵まれていると、まずはその事実に毎朝ブラボーと言いたくなる。公園などで近所の人たち同士が話している時に、グッドネイバーズの地域に住んでいてよかった!私たちはグッドネイバーズに恵まれている!とお互いを褒め称えているシーンにたまに出くわすので、私の感覚がおかしいというわけではないらしい。私も誰かのグッドネイバーズであれるよう精進したい。
メリークリスマスあらため「ハッピーホリデイ」
今までさして疑問に思わず、クリスマスをはしゃいで生きてきた。クリスマスは楽しく過ごす日で、クリスマスイヴは恋人たちのためのロマンチックな日、のはずであった。しかし、昨年オランダにいる時に初めてフランスの友人宅でクリスマスを過ごしてから(彼らは敬虔なカトリック教徒だったので)、クリスチャンでもない自分がキリストを祝うのはおかしいと感じるようになった。そして今年、アメリカでその思いは確信に変わった。私が住んでいるニューヨーク州はユダヤ教徒が多い。彼らにとってはクリスマス時期はハヌカという別のお祝いのシーズンなので、クリスマスは中華をテイクアウトしてムービーナイトをして過ごすというのは有名な話らしい。信仰している宗教によって、家の飾りや誰と何を食べて、どう時間を過ごすかなどが変わるのだ。同じ地域に住んでいるけれど、違うものを信じている場合、みんなで平和にやっていくにはそれぞれの祭事や祭日を平等に扱う必要がある、と学んだのは、娘の学校からのメールである。校長先生をはじめ、担任の先生、音楽の先生などから冬休み前にメールが入るのだが、メリークリスマスは誰も使わない。そこには「ハッピーホリデイ」または「ハッピーニューイヤー」と書かれていた。私は焦った。そして娘は私以上に焦っていた。彼女は前日に、担任の先生へ「メリークリスマス」と書いたクリスマスカードを送っていたからだ。日本のクリスマスというのはもはや日本独自の文化なのだ。それはそれで思い出があるし可愛くて好きなのだけれど、外国へ出たらそれ相応の振る舞い方をしたほうが良いのだと親子で学び、オランダのアムステルダムで2度、ここニューヨークで3度目の冬を越しながら、きちんと客観性を持って自分を見直すことの大切さを改めて感じた。
おわりに
初めの英語の話でふれたように、私は、今年の1月にアメリカへ来てから、一時帰国した8月を除いて、ほとんど家族以外の日本人と話さなかった。9月に、普段は日本に住む友人がニューヨークで仕事だからと一晩自宅に寄ってくれたことがあって、彼女と夜中の3時まで話した。アメリカにいて日本語で何時間もお喋りすることがふだんないので、彼女が帰ったあとはさみしくて、その時に外国生活3年目にして初めてホームシックになった。
今はインターネットがあるので、人を避ける暮らし方が可能だ。アメリカに住んでいても、ネットスーパーを使えば英語を話さなくても物は手に入るし、VPNを繋げば自宅で日本語のコンテンツのみにふれてほぼ誰とも会わずに生活が出来る。ホームシックになった時に、一時的にそういう生活をしてみたけれど、安心しているようでいつまでたっても気持ちが晴れず、だんだん、自分が傷つくのが怖い、面倒くさい、そんなことを考える時間が増えてきた。そして自分にしか興味がなくなりそうな自分自身に嫌気がさしてきた。私は人と話したほうが良いのかもしれないと思い、その生活は早々にやめることにした。
新しい土地で生活をすると、新しい考え方に出会う。新しい考え方は、自分が生きる世界は広くてゆたかだと気づかせてくれる。これは私の場合だけれど、感動の多くは人との交流によってもたらされる。今回挙げた、いくつかのキーワードは、そのようなコミュニケーションの中から拾ってきたものであり、私自身の驚きや発見の一部だ。来年はまた、新しい経験をレイヤーのように重ね、今どのような色合いになっているのか、その都度確かめながら半歩でも前進したい。