人妻夜のティータイム事件

CULTURE

Night Tea Party

ある金曜日の夜に、ひとりの人妻がナンパされた。ちなみに私のことではない。

その日は、娘の習い事で夜のイベントがあった。そのイベントはお楽しみ会みたいなもので、子どもたちは夜の六時過ぎに集合し、ピザを食べたり、アクティビティをしたり、映画を観たりして楽しい時間を過ごす。

子どもたちの放課後事情
オランダでは、アメリカのように、子どもが1人で外出することに対する厳しい規制は無い。地元のオランダ人の子どもたちは、公園やショッピングモールに子どもたちだけで来て遊んでいる。だが、EXPAT(エキスパット)と呼ばれる、駐在など何かの事情で外国から来て、一時的に外国で働く親を持つ子どもたちに関しては、子どもだけで出かける機会は恐らくあまりない。外国人なので、言語面での不安(オランダの公用語はオランダ語)と、治安面での心配があるのが大きな理由だろう。

親のいない時間を過ごす子どもたち
そういうわけで、エキスパットの子どもたちは、基本的にどこへ行くにも親が同伴するか、知っているお友だちのお母さんやお父さんや親戚、またはベビーシッターが、watcher(ウォッチャー=監視役)やcarer(ケアラー=世話をする人)としてそばにいる環境下でプレイデート※をする。だから、始終そばにいるわけではない大人(習い事の先生など)や友人たちだけで過ごす時間というのは、少しどきどきする体験である。また普段は明るい時間に会っている友人と夜に会って遊ぶというのは、それだけで刺激的だ。その夜に集まった子どもたちは、どの子もくすぐったいような顔をして、相当はしゃいでいた。習い事の運営会社による、子どもたちを楽しませたいのと、大人のみなさんもたまにはゆっくりしてくださいねという意図で、保護者はその場に留まることは許されず外に出ることになった。
※プレイデート…遊びの約束のこと。子どもに対して使われる。

その頃親たちは
子どもを預けたあと、保護者は2時間ほどフリーになった。夫婦でデートをする人々があれば、この機会にとバリバリ仕事をする人もいた。私は、自分の娘を預けて外に出たところで、友人のママに呼び止められた。彼女に、新しい友人を紹介するから一緒に来ないかと誘われたので、行くことにした。

友人に導かれた先には、ひと組の夫婦がいた。ご夫婦は、自分たちはイラン出身で、昨年の冬にオーストラリアからオランダへ来たと自己紹介をしてくれた。女性のほうが、アイシャ(仮名)と名乗った。私は7ヶ月前に日本からここへ来たと伝えた。そして旦那さんの方が、自分は車の中で待つから、君たちだけでゆっくりしておいでよと言ったため、妻たちだけでお茶をしようということになった。

缶ジュースで乾杯する人妻
我々は、ユダヤ人街と言われるエリアにいた。金曜日の夜から土曜日の夜は、シャバットといわれる安息日で、街から人が消え、ほとんどの店が閉まる。しばらくうろうろしていたところ、アイシャの旦那さんが開いているお店を探して連絡をくれた。3人で入った店には、場末のモーテルのような怪しい雰囲気が漂っていた。その店は、冷蔵庫から自分で缶の飲み物を取ってくるスタイルだったので、各自が7UP(セブンアップ)という三矢サイダーに似た飲み物やリプトンの甘いティーなど、思い思いのドリンクを買い求め、テーブルを囲んだ。いったん話しはじめると、ここがモーテルだろうがベルサイユ宮殿だろうがどこでも構わない、という心持ちになった。

トピックは子ども、ではなく政治とフェミニズム
初対面のママ友同士でお茶というと、子どもについて話すというのが世間一般の流れのような気がする。しかしその日は、序盤は学校のことを話していたものの、話題はいつしか多様性、人口推移、最近の技術革新などに移り、気がつけばそれぞれの出身国や世界の未来についてどう考えているかという真剣な議論になっていた。数週間前のイランでは、ヒジャブの被り方が不適切という理由で、22歳のマハサ・アミニさんが逮捕されたのち死亡した事件を受け、反政府デモが起きたばかりだった。またその直後にフランスでは、ジュリエットビノシュやマリオンコティヤールらフランスの女優たち50人以上が、髪を切ってイラン女性のムーブメントに賛同する動画を公開していた。

アミニさんの死を受けて、オンライン上で髪を切って反抗に同意するフランスの女優たち 左から ジュリエット・ビノシュ、マリオン・コティヤール、イザベル・ユペール the guardian記事より引用

私にアイシャを紹介した友人エレンヌ(仮名)はフランス出身だったので、タイムリーな話題でトークは白熱した。アイシャは、日本は何もかもが上手くいっている国だと思っているのだけれど、実際はどうなの?と私に聞いた。アイシャは学者で、エレンヌは教育者だ。好奇心旺盛なふたりを前に、私は、分からないことは正直に分からないと言い、知っていることはなるべく言葉を正確に使うように努力して、日本について思うところを述べた。その後も、最近フランスで論争が起きている中絶法に関する憲法改正や、シンゾーアベ元首相銃撃事件についてなど、政治やフェミニズムの話をしているうちに2時間が経過しようとしていた。

レジ前でナンパされた人妻
子どもたちを迎えに行く時間が迫ってきたので、我々はお店を出ることにした。会計の際に、突然レジ係のお兄さんが聞いた。


お兄さん「君たちは見た目が全然違うけど、それぞれどこの人?」

アイシャ「私はイラン。」
エレンヌ「フランス。」
わたし「日本。」

お兄さんは、それはインターナショナルだと笑ったあとでエレンヌに聞いた。
「ところで、あなたの隣の素敵な女性は、結婚してるのかな?」

店内の空気が一瞬にして変わった。隣の女性というのはアイシャのことだった。彼は、エレンヌをだしにして、アイシャをナンパしていた。驚いて既婚だと伝えるアイシャに、お兄さんはあらゆる賛辞を送ったが、アイシャは、私はとても歳をとってるのよと、なぜか怯えた困り顔でコメントしてお兄さんをあしらった。

属する国、宗教、文化でまったく違う女性の立場
店を出た後に、エレンヌが真面目な顔で言った。「恋の誘いを受けたら、フランスではこう返すの。ありがとう、でも忙しいの。お話できてよかったわ。そういう慣習よ。」

すると、アイシャがひそひそ声で返した「まさかそんなこと考えもつかない。さっきのやりとりを知ったら、きっと私の夫は、私を殺すわ。」

私は耳を疑った。アイシャは、妻が他の男性に声をかけられただけで夫が妻を殺す可能性があるというのが、彼女の文化圏では一般的な考えだというのだ。街でヒジャブを被っている女性たちをよく見かけていたが、どこか他人事だった。女性であるということが、置かれる環境によってこれほど危険になるとは。。私は、身近な人から教えられることで初めてその恐怖を想像しえた。アイシャが自宅の中ですら安心できずに生きている事実がショックだった。私の中で、これは事件だった。

お茶会のあとに
まもなく、中東初のワールドカップがカタールで開催される。サッカーが好きな私の夫は、一度も映ったことがない備え付けの壊れたテレビを、何とか直して観戦しようとしている。オランダでは、人権問題で荒れるワールドカップ開催に、サッカーは大人気のスポーツにもかかわらず、やや消極的ムードだ。選手や試合に咎はないからと、我が家は観るかもしれない。

私は、ヨーロッパや中東地域であると同時に、キリスト教やイスラム教にアイデンティティを持つ女性たちと直接話をすることで、彼女たちが抱える背景や感情を部分的に知った。この経験から、自分には少なくとも、誰の指図も仰がずに人生の方向性を決められる自由とセイフティネットが比較的あることに気がついた。自由を持つことには、義務と責任が伴うものだ。国の威信をかけた大きなイベントにしろ、日々の生活の上での小さなことにしろ、新しい視点をふまえて判断し、節度とバランスある行動を心がけたい。

アイシャが首を横に振りながら、「今のイランには何も期待出来ない。特に女性は(弾圧が激しいから)生きづらい。」とつぶやいたのが印象的だった。そんなアイシャにエレンヌは、「No future(未来なし)ね。」と返した。みなで目を合わせて3秒ほど沈黙が続いたあとに、「まさにその通りだけど、なんとか明るく生きてゆきましょう。たまにお茶を飲んだりしながらね。」と誰からともなく言い出して、3人でそうだそうだと笑い合って別れた。束の間の休息や気休めかもしれないが、ティータイムの力はすごいと思った夜だった。